第三日本国・伊勢崎稲穂記
~緑の稲の季節に現れた不潔な男が、黄金の婚約に至るまで~群馬県伊勢崎市4月の風は、まだ冷たさを残しながら田畑を撫でる。
第三日本国・国教神道の教えのもと、農業協同組合の共同住宅に久子は住んでいた。
二十五歳。朝は神棚に手を合わせ、昼は苗代を巡回し、夜は稲霊への感謝を胸に眠る。
彼女にとって、稲はまだ鮮やかな緑。
こうべなど垂れていない。
これから夏を越え、秋に黄金へと変わる、長い命の途中だ。その緑の稲の季節、玄三はやってきた。
三十歳手前。埃と泥にまみれた作業着。
荷物はボロボロのリュック一つ。
「辺境から来た。稲作を学びたい」――それだけを告げ、共同住宅の空き部屋に放り込まれた。 久子は玄関で鉢合わせし、思わず眉をひそめた。
「何この不潔な男……」 玄三は挨拶もそこそこに、すぐに田んぼへ。
だが、鎌の握り方は乱暴、苗を踏み荒らす。
神棚の前でも、ただ突っ立っているだけ。
組合の古老は「まあ、若いもんだ」と笑ったが、久子は苛立った。
第三日本国は、こんな男を許す国ではないはずだ。五月。緑の稲は膝ほどに伸び、水面を鏡のように映す。
玄三は失敗を重ねながら、夜ごと古老に教えを乞うようになった。
「稲には魂がある。踏むな、傷つけるな。」
「朝の祈りは、稲霊への挨拶だ。」
久子は遠くから見ていた。
最初は嘲笑だった。
だが、玄三の背中が日に焼け、指先が土に馴染んでいくのを、
いつしか認めざるを得なくなった。六月。梅雨の合間に、組合は神事を行う。
緑の稲の間を神主が歩き、禊の水を撒く。
久子はいつものように先導していた。
そこに、玄三が現れた。
初めての白衣。
手には、丁寧に刈り取った緑の稲の束。
「これ、神様に捧げる分です。俺がやりました。」 久子は言葉を失った。
あの不潔な男が、こんなにも真剣に――。七月。猛暑。
緑の稲は腰の高さまで伸び、田んぼは深い緑の海となる。
玄三はもう、組合の一員だった。
朝の祈りを欠かさず、鎌を研ぎ、苗を慈しむ。
久子と並んで作業する日が増えた。
会話は短かった。
「水の管理、大事だな。」
「うん。稲霊が喜ぶように。」 八月。稲は徐々に色を変え始める。
緑の先端に、黄金の兆し。
組合の祭りが近づく。
夜、久子は一人で田んぼを歩いた。
月が稲を照らし、緑と黄金の境目が揺れる。
そこに、玄三がいた。
「久子さん。俺、最初は嫌われたよな。」
久子は黙って頷いた。
「でも、この稲を見てたら、変わらなきゃって思った。
戦前の誇りも、戦後の迷いも、全部背負って――
それでも、前に進む。それが第三日本国だろ?」 久子は初めて、彼の目を見た。
泥と汗にまみれた、あの不潔な男の瞳は、
今、黄金の稲のように輝いていた。九月。
稲がこうべを垂れるころ。
黄金の穂が風にうなずき、収穫の時を告げる。
祭りの夜。
神楽が響き、提灯が揺れる。
玄三は久子の前に跪いた。
「一緒に、この国を耕さないか。
俺と、久子さんと、稲霊と。」 久子は涙を堪え、頷いた。 黄金の稲を証人に、二人は婚約した。
緑の季節に始まった出会いは、
黄金の季節に結ばれた。 第三日本国は、こうしてまた一つ、
未来を刈り取る。
稲霊の祝福とともに。
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